2014年12月03日

古典の日2。

原文を翻刻して漢字を振れば意味が取りやすくなるように、朗読されて抑揚がつけば、古典はもっと身近なものになるはずです。
音読というのは意外にスキルを要求される行為で、文節や単語の切れ目、文章のまとまりなどが把握できていなければできないことです。
実際、古典が苦手、分からないという人は、音読ができません。
そういう意味では「意味がきちんと分かっている人に読んでもらう」というのは自習方法としてかなり有効な手段だと思います。
英語の教科書に音声教材がつくように、国語(特に古文・漢文)の教科書にも音声教材がつけばいいのに。

こういう運動がもっと盛り上がればいいですね。
古典の日朗読コンテスト
http://www.kotennohi.jp/contest.html


ちなみに、Yukiのオススメはこちら。
どちらも「堤中納言物語」から(素材選びからして既にツボ)。
姫があまりに可愛いので、ヘヴィロテで聴きたくなる素敵朗読です。

虫めづる姫君(その1)
http://www.voiceblog.jp/junkoropin/561196.html
虫めづる姫君(その2)
http://www.voiceblog.jp/junkoropin/562581.html
虫めづる姫君(その3)
http://www.voiceblog.jp/junkoropin/563809.html


貝合(その1)
http://www.voiceblog.jp/junkoropin/590595.html
貝合(その2)
http://www.voiceblog.jp/junkoropin/591242.html


そして実は物凄く好きな朗読(復元読みなので、お勧めはしません)。


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2014年11月27日

しごうかよんごうか、それが問題だ。3

Shi-go or Yon-go : that is the question.

「しごう→さんごう→よんごう」という変遷から、
「よんごう」派が多数を占めるようになったのではないかと妄想した前回。

三合時代を生み出したのは、
どうやら教科書編集者の石森延男氏であった模様。


でもそれより心掴まれたのは、ウィキペディアさんの「執筆から発表まで」における以下の部分。

「2011年4月11日、ワシントンのナショナル大聖堂において、東日本大震災の犠牲者を悼むための宗派を超えた追悼式が開かれ、サミュエル・ロイドV世大聖堂長により本作が英語で朗読されている[2]。

[2]2011年4月12日14時0分、NHKニュース『ワシントン 犠牲者追悼の祈り』」

そういえば聞いて泣いたなあと懐かしく思い出しました。
posted by Yuki at 23:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2014年11月25日

しごうかよんごうか、それが問題だ。2

Shi-go or Yon-go : that is the question.

以前も触れた気がしますが。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節、
「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」をどう読むか。
要は「玄米四合」をどう読むか、
ということがずっと胸に引っかかっています。

「しごう」派に「よんごう」派があるようですが、
Yukiはずっと「しごう」だと思っていました。


戦後の国語の教科書において、
「雨ニモマケズ」は教科書に載せてもらう許可を得るために、
たった一文字ながら改竄を受け入れざるを得なかった、
という話を授業で聞きました。

それがまさに、
「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」の部分。
国民全体がほぼまともに食べられないという非常事態だった当時、
「玄米四合」は食いすぎだろう、贅沢だ、せめて三合にすべき、
と掲載に待ったがかかったんだそうです。

だから「雨ニモマケズ」は一時期、
「一日ニ玄米三合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」
と改竄されて掲載されていた時期があった。

「玄米三合」は「げんまいさんごう」と読むしかありません。
編者は改竄に対してかなりの非難を浴びたそうですが、
もしその当時の「玄米四合」が「げんまいよんごう」だったら、
正直「三」だろうが「四」だろうがまあ、
そこまでの違和感はなかったんじゃないかと思います。

でも「玄米四合」が「げんまいしごう」だったら、
「四」が「三」に変われば、音数が一字減ってしまうわけで、
その違和感たるやダブルパンチになるはずです。
うん、だから元は「しごう」だったんだろうと思ってたのかな。


ああでも、
大抵の人は教科書で初めて賢治を知るんでしょうから、
先に「三合時代」があって、
それに慣れ親しんでいたところにオリジナルの「四合」に戻されてしまった、
という流れになるのかもしれないですね。
だとしたら「さんごう」に引っ張られて、
「よんごう」が主流派化したという可能性は捨てきれないかあ。
posted by Yuki at 00:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2014年11月17日

朗読の祭典【後編】

前半が終了した時点で19時38分。
今さっと飛び出せば新幹線の最終にまだ間に合うよなあとは思いながら、結局退席せずそのまま居座ることにします。
だって時間を気にして中途半端にして、後になってやっぱり最後まで見れば良かったとか思い直すのが嫌だから!
どうせ思いつきからの修正修正でここまで来たんだから、良いや良いや良いや!


中休みからの後半戦、トップバッターは宮沢賢治の『クンねずみ』。
「朗読か? 落語か? 一人芝居か?」の煽りに恥じぬ老練感! これは絶対やり込んでるでしょ、と惚れ惚れするほどです。
朗読用のテキストを手にしたまま、さながら小道具に見立てながら、落語口調で一人芝居している感じといったら情景が目に浮かびます?
今回のお目当て以外では、初めてもう一回「見たい」なあと思った朗読でした。
朗読なのに見るとはこれ如何に。
見なかったという方は人生少しだけ損しましたね、多分。

宮沢賢治『クねずみ(新字新仮名)』 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/card1946.html


お次は随筆『武蔵野』のイメージが強い国木田独歩の『初恋』。
「初恋」と言ったら島崎藤村に村下孝蔵、後はツルゲーネフ(ただしタイトルとあらすじのみ)くらいしか知らなかったYukiですが、意外に好きなテイストの、ちょっとほっこりするお話でした。
唐突なオチに面食らいつつ、一呼吸おいて考え直してみて、にんまりする。
そういう幕引きも嫌いじゃなかったですし。
読み手は女性でしたが「やや理屈っぽくて小生意気な少年語り」が実にしっくり似つかわしくて、何故だか今はなき「ハウス食品・世界名作劇場」やら「住友生命・青春アニメ全集」やらの新作に立ち会っているような気分になってみたり。
朗読が良くて余計にいい話に感じたという可能性はまあ捨てきれないんですが、Yukiのように知らなかったという方は是非、ご一読下さいませ。

国木田独歩『初恋』 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/42205_34796.html


『モチモチの木』のイメージが強烈すぎる斉藤隆介の『鬼の嫁』。
これまた好きなテイストの、ほっこりする……でも物悲しいオチのお話でした。
気づいたら鬼に感情移入して、鬼寄りで話を聞いていたような気がします。
もしかしたら読み手から作品への愛情という電波が飛び出していて、聞き手であるYukiがそれをキャッチした、そういうファンタジックなことなのかもしれません。
訛った感じがまた良かったです。
他の朗読も聞いてみたいような、今回のイメージを壊されたくないような、そんなジレンマがあったり。


芥川龍之介の『蜘蛛の糸』
あまり好きな話ではないのに、何故か何度も何度も聞いたことのある『蜘蛛の糸』。
作品の肝とは恐らく直接関係のない部分で、腑に落ちないというか納得の行かない部分が多くて、今ひとつ歓迎できない作品です。
「蜘蛛を助けた時のカンダタのキャラが不自然」
「暇を持て余した釈迦の遊び感がどうにも受けつけられない」
「もしカンダタが騒がなかったら、全員を極楽にご招待するつもりだったのか」
小松左京がパロディを書いてしまう気持ちがちょっとだけ分かるような気になってみたり。
読み手の息苦しそうな感じに、ちょっと切羽詰ったような、落ち着かない気分になってみたり。
もう聞きたくないと思うのに、何故か縁のあるお話です。

芥川龍之介『蜘蛛の糸(新字新仮名)』 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html


ピアノ付き、小泉八雲の『雪女』。
原文(英文)で堂々と朗読したらめちゃくちゃ格好いいのになあと思いましたが、さすがにそんなことはなかったです(ちゃんと編訳って書いてありますしね)。
今にもオペラでも歌いだしそうなドレス姿にかなり面食らいましたが、それもまた世界観を醸成するための小道具と思えばそんな物なのかもしれません。ただその扮装から飛び出す「巳之吉」はかなりの破壊力がありましたが。
主客の分をわきまえた、寄り添うピアノが良かったです。
最後の最後、妻である雪女が夫に言う台詞の部分、随分とエモーショナルというか感情過多で、今回、この作品を選んだ理由はコレを言いたかったからとかなのかなあと思いました。

小泉八雲/田部隆次訳『雪女 YUKI-ONNA』 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/50326_35772.html


今度は宇野千代の『大人の絵本』からの「悲劇」。
実は初・宇野千代です。
読み手はただ読んでいるだけ、暗誦しているだけのはずなのに、ご自分の体験をまさにこの場で告白されているような不思議な感覚に。
ツンデレ? からの、まごうことなき悲劇にドン引き。
こちらも『初恋』同様、幕を引かれた瞬間には、音だけが脳内を通り過ぎる感じで、処理が追いついていないんですが、意味が分かった時には自分でもびっくりするほど驚いてしまいました。
ある意味ありがちと言えばありがちなオチではあるんですが、日常会話やちょっとしたおしゃべりとは一線を画す「練りに練られた物語」を筋立ても知らないまま聴力頼みで理解しようとするということ自体が新鮮で、面白かったです。結構処理にいっぱいいっぱいで、先読みというかオチを想像する暇もないという。
強いて言えばラジオドラマに近い感じかな、うん。
百パーセント人の声だけに頼る、音楽も効果音も何もない、一人芝居のラジオドラマ。


お次は二本立て。
どちらもド定番というか、クラシカルでオーソドックスな印象の強い二本です。
まずは教科書でお馴染みの吉野弘「夕焼け」。
宝塚の男役っぽい声の響きだなあというのが第一印象。
ピアノも含め、視聴覚資料として図書館に収められていそうな、実にクラシカルでオーソドックスな朗読でした。好き嫌いが分かれなさそう。

二本目は何百回聞いたか分からない、宮沢賢治の「永訣の朝」。
朗読の定番なのかもしれません。
そういう意味ではべらぼうにハードルの高い作品です。
東京出身の某詩人の解釈を知って以来、「あめゆじゅとてちてけんじゃ」のフレーズを、どういうイントネーションで、ブレスで、その人は読むのかということに凄く集中してしまいます。
特に気になるのは花巻地方の方言語尾である「けんじゃ」の部分。「『けんじゃ』とは兄である賢治への呼びかけである」なる新解釈が打ち出されたせいです。「兄じゃ」という言い方があるように「賢じゃ」と呼んでいたのだというのです。
初めて知った時には唖然としました。
それを支持する人がいるということを知った時に、さらに唖然としました。
そういう層の人々は「〜ざます」や「〜だっちゃ」を何だと思っているのでしょう。
そして今回、「あめゆじゅ/とてちて/けんじゃ」と読まれて、もしかしてこれは支持している人の読み方なのではないかと気がつきました。

巣穴もある九州には「〜してハイヨ」という方言語尾を使うエリアがあります。勿論、今でもある一定の年齢以上の層には現役で使われています。
意味としては「〜してください/〜してちょうだい/〜してね」といったところ。
「聞いてハイヨ」「見てハイヨ」「言うてハイヨ」のように使われています。
だから、賢治がもし「〜してハイヨ」を使うハイヨ圏の詩人だったら、今頃は「あめゆじゅとてちてはいよ(雨雪を取ってきてちょうだいな)」となっていた訳です。
さてこれを非ハイヨ圏の人間が鑑賞しようとしたらどうなるか。
恐らく「けんじゃ」の時のように「あめゆじゅとてちて/はいよ」と解され、この「はいよ」は「いいよ、取ってくるよ」または「どうぞ、とってきたよ」のどちらを表わしているのか論争になったのではないかと思います。

朗読は基本的に、楽譜があるだけでは完成し得ない音楽とは違って、ある種の二次創作、二次使用だと思っているので(要は小説のドラマ化とか漫画のアニメ化などと一緒)、読み手がどう解釈しようと、それは読み手の自由だと、理解してはいるつもりなのですが。


遂に琵琶登場の、『平家物語』より「壇ノ浦の合戦」。
噛まず詰まらずの怒涛の早口言葉に、これは訓練の賜物かと感心しました。
ピアノの早弾きでも聞いているような感じ。
多分、琵琶法師風…というより活動弁士風?? な雰囲気を醸し出したかったんだろうなあ。――でも、何のために?

怪談「深夜のふみきり」
一番最後にやる人なんだから、多分、一番上手な人ってことなんだろうなあ、やはり琵琶は良いなあと思いながら、聞きました。


全部終わって、フロアでお話までさせていただいて、会場を出て少し歩いて、携帯の電源を入れたところで21時38分。
携帯の電池はほぼなし。ついでに宿の方もなし。
コレはなかなかのピンチです。
まさに野となれ山となれ。
(行けるところまで)行くべきか(さっさと都内に)泊まるべきか、それが問題だ。
楽しかったからまあいいか。
posted by Yuki at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2014年11月16日

朗読とピアノのための4つの小品

時は来にけり!

遂に本命、声とピアノとが協奏する、「朗読とピアノのための4つの小品」のお時間がやって参りました!

森…あれ? この場合は何とお呼びしたらいいんでしょう。そのままずばり「お母様と兄上」? 形式からの「森下二重奏(デュエット)」? お母様の発表会での競演なのだから、基本的にはお母様が主、兄上が客に設定されるべきかとは思うんですが。
ええと、とにもかくにもお母様と兄上による競演です。

兄上はピアノの下、ステージに直に何かぐるぐる巻きの長方形のものを置いて(何だろう? 手帳っぽいけどそんな物わざわざステージに持ち込む必要ないし……録音機器かな、スマートフォン的な?)、椅子をうんと下げて、黒い表紙の楽譜(?)をセッティングして、スタンバイ。
お母様はステージ上の椅子にはおかけにはならず、お立ちのままでスタンバイ。



まずは、茨木のり子の詩華集『おんなのことば』からの「落ちこぼれ」
すかさず兄上のピアノが始まります。
横顔と指の動きを堪能しているところへ、動画でも聞きなれたお母様の、透明感を増した高めの第一声が、一筋の光線のように響いて、そのまま意識が引っ張られます。

「あ、ここ、声響くんだ」

実に失礼極まりない感想を抱いたところで――声を張り上げている人はいたけれど「響いている」と感じた瞬間はなかった気がします――また、ピアノ。
弾いている瞬間を見損ねたら勿体無いと慌てて兄上へと目を戻すも、すかさずお母様の声が響いて、意識はまたお母様へ。
しかも、ちょっとした目線や仕草が独特の世界観を醸し出しているのを感じます。
かわいらしさとかコミカルさとか。
これを見ないのは絶対、勿体無い!

ピアノが響けば兄上へ、声が響けばお母様へ。
うわあ、どっちを見ればいいの!?
――もう、どっちも見りゃいいじゃん、協奏曲だもん(今決めた!)。

うん、「おちこぼれ」って本当に響きがかわいい言葉だなあという再認識がありました。
声の響きが乗ったことで、説得力が増した気になりました。



お次は、茨木のり子の詩華集『おんなのことば』からの、表題作でもある「おんなのことば」
お母様のコミカルさとシリアスの落差に、ぐっと胸を掴まれます。
でも、例えば歌だったり、一人芝居だったりする訳ではなくて、そこから生じる過剰な自己陶酔もなくて、ちゃんと朗読の範疇に踏みとどまっているのが格好いい。

途中、ピアノが声を凌駕する瞬間があって、聞きづらいなと一瞬だけ思うんですが、多分、この場合の感想としてそれは間違ってるんですよね。
例えばヴァイオリンとピアノの協奏曲を聞いている時に、「ピアノの音と混ざってヴァイオリンが聞きづらい」なんて、誰が言い出すでしょう?
混ざった音を愉しめばいいんです。
それに。
声の方も負けてない。

ヴァイオリンで人のしゃべり声を再現している様子をたまに見かけますが、まさに、そんな感じ。
歌ではないんですけれど、音ではあるわけですから、そのまま楽譜に起こせると思うんですよね。
それをそっくりヴァイオリンで演奏して、そのままピアノと協奏できそうな、そういう声の張りに、人の声は楽器だと言うのは本当だなと改めて思いました。
ただし声には言葉が乗って、意味を含んで響きますから、実際にはそっくりそのままスライドして「ヴァイオリンとピアノのための協奏曲」にはできないでしょうけれど。



そして遂に! 本命中の本命が!
茨木のり子の詩華集『茨木のり子詩集』からの「わたしが一番きれいだったとき」。
世の茨木のり子ファンは「汲む」押しの方が多いようですが、Yukiのイチオシは断然「わたしが一番きれいだったとき」。「When I Was Most Beautiful」も好き。

回想録が始まってもおかしくないタイトルなのに、ことさらに戦争その悲惨さを謳う訳でも、自己憐憫を叫ぶ訳でもなくて、勿論、消化しきれない悲しみや苦しみは透けて見えるんだけれども、それは事実として認めながら、そこと陸続きのどこかから、前向きに仁王立ちしているような凛々しさが好きです。

これが演目に入ったから、誘惑に負けて巣穴からノコノコ出てきちゃった訳ですし。
しかも3本目。
今のところハズレなしですから、楽しみで楽しみで胸が高鳴ります。

……これはあれだな、あった方がいいヤツじゃなくて、ないと駄目なパターンだ。

だって、
ある時は効果音、
ある時はBGM、
ある時は声と張り合い、
ある時は展開を暗示する。

兄上は八面六臂の大活躍です。

例えば、お母様の声で「ラジオからはジャズが溢れた」と響く。
その瞬間にジャズが溢れるように流れてくる。
ある意味ベタな演出ではあるんですけれど、ベタだってことは王道だってことで、やっぱりまっすぐに胸に響いてくるんです。

一度は死んでしまった茨木のり子だけれど、
今回、「声とピアノの協奏」というまな板に載せられたことで、
もう一花咲かせたような、別の命を授かったような錯覚を覚えるんです。
こうして読み継がれ聞き継がれていったら、彼女が二度死ぬ日は来ないなと思えるんです。

我ながら馬鹿みたいに感動して、奥歯を噛み締めながら、ぶるぶるぶるぶる震えていました。

茨木のり子展とか、常設の記念館があったら、「朗読の展示」も検討して欲しいと思いました。
少なくとも「朗読とピアノのための4つの小品」は、そうやって展示していいレベルだと信じます。
古典の日に古典作品の朗読を募集しているように、茨木のり子の日(っていつかな。6月12日か2月17日?)に公募したりして、何ならそれで町おこしでもしたらいいのに。
人もまた資源ですよ。



ラストは、茨木のり子の詩華集『倚りかからず』からの、表題作でもある「倚りかからず」。
毅然とした「もはや」を目にするたびに、茨木のり子の人生の何を知っている訳でもないのに「いやいやあなたは自分の足でいつでも仁王立ちしているじゃないですか」と言いたくなる作品です。

とうとうラストになってしまいました。
この調子で後一時間くらい突っ走ってくださっても全く問題ないのに。

お母様はやはり毅然と「もはや」を読んでくださって、実は茨木のり子が憑依しているんじゃないかとか、そういうファンタスティックな感想が脳裏を掠めます。
そうそう、ここでようやく椅子の出番が。

最後、お母様がちょんと椅子に腰掛けて、兄上の演奏を聴いているところにほっこりしました。
そのままリサイタルに突入してくださっても全く問題なかったのに。

…と思っているうちに本当に終わってしまって、じーんと淋しくなりました。
手が痒くなるくらい拍手したから、そのままアンコールが……ということは勿論なくて。
無常にも緞帳は下りてしまったのでした。



ここで前半が終了。

すごく濃い時間で、全く「あっという間」という気はしなかったです(体感時間としては30分ぐらいあった気がします)。

緞帳が下りて、携帯の電源を入れると、19:38。
開始から一時間八分が経過した計算です。
このままこの余韻に浸りながら、退席して母の里へと移動するのもありかなという気がしたり。
最後にカーテンコールとか出演者紹介とかあったらショック過ぎる! 最後まで見届けないと! と思いなおしたり。


ちなみに全部が終わっても、別にカーテンコールや出演者紹介はなかったです。

代わりといっては何ですが、ロビーに出演者の皆様がいらっしゃって、お知り合いらしき方々と歓談していらっしゃいました。
ちょうど目の前には生兄上がいらっしゃって、どなたかとお話していらっしゃって、そっとお声の響きを拝聴します。
気分は覗き見しているストーカー(全力で駄目な人)。

勇気を振り絞ってご挨拶…(しようとしたんだったかな、しかけたんだったかな、したんだったかな。興奮しすぎてちょっと記憶が曖昧です)。

とにかくそこへ右手からお母様が!
差し入れに驚いていらっしゃる風で、「おお、普段のおしゃべり声を聞いちゃった!」とか興奮していると(まるっきり不審者)、多分、不審者の気配をお察しになったのでしょう、私の方を向かれたので、勇気を出してご挨拶を。
そうしたら「息子! 息子!」と兄上をご紹介くださいました。
そのまま生兄上ともお話させていただけることに。

我ながら落ち着け、落ち着けと念じながら、でもそんな物はこれっぽっちもストッパーにはならず、大興奮の大音量で感想をとめどなくしゃべりまくってしまった気がします……。

いいんだ、どうせそんなキャラなんだ。
次回のつくばの時に、もうちょっと理知的なキャラを装えばいいんだ。
posted by Yuki at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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