2014年11月16日

朗読とピアノのための4つの小品

時は来にけり!

遂に本命、声とピアノとが協奏する、「朗読とピアノのための4つの小品」のお時間がやって参りました!

森…あれ? この場合は何とお呼びしたらいいんでしょう。そのままずばり「お母様と兄上」? 形式からの「森下二重奏(デュエット)」? お母様の発表会での競演なのだから、基本的にはお母様が主、兄上が客に設定されるべきかとは思うんですが。
ええと、とにもかくにもお母様と兄上による競演です。

兄上はピアノの下、ステージに直に何かぐるぐる巻きの長方形のものを置いて(何だろう? 手帳っぽいけどそんな物わざわざステージに持ち込む必要ないし……録音機器かな、スマートフォン的な?)、椅子をうんと下げて、黒い表紙の楽譜(?)をセッティングして、スタンバイ。
お母様はステージ上の椅子にはおかけにはならず、お立ちのままでスタンバイ。



まずは、茨木のり子の詩華集『おんなのことば』からの「落ちこぼれ」
すかさず兄上のピアノが始まります。
横顔と指の動きを堪能しているところへ、動画でも聞きなれたお母様の、透明感を増した高めの第一声が、一筋の光線のように響いて、そのまま意識が引っ張られます。

「あ、ここ、声響くんだ」

実に失礼極まりない感想を抱いたところで――声を張り上げている人はいたけれど「響いている」と感じた瞬間はなかった気がします――また、ピアノ。
弾いている瞬間を見損ねたら勿体無いと慌てて兄上へと目を戻すも、すかさずお母様の声が響いて、意識はまたお母様へ。
しかも、ちょっとした目線や仕草が独特の世界観を醸し出しているのを感じます。
かわいらしさとかコミカルさとか。
これを見ないのは絶対、勿体無い!

ピアノが響けば兄上へ、声が響けばお母様へ。
うわあ、どっちを見ればいいの!?
――もう、どっちも見りゃいいじゃん、協奏曲だもん(今決めた!)。

うん、「おちこぼれ」って本当に響きがかわいい言葉だなあという再認識がありました。
声の響きが乗ったことで、説得力が増した気になりました。



お次は、茨木のり子の詩華集『おんなのことば』からの、表題作でもある「おんなのことば」
お母様のコミカルさとシリアスの落差に、ぐっと胸を掴まれます。
でも、例えば歌だったり、一人芝居だったりする訳ではなくて、そこから生じる過剰な自己陶酔もなくて、ちゃんと朗読の範疇に踏みとどまっているのが格好いい。

途中、ピアノが声を凌駕する瞬間があって、聞きづらいなと一瞬だけ思うんですが、多分、この場合の感想としてそれは間違ってるんですよね。
例えばヴァイオリンとピアノの協奏曲を聞いている時に、「ピアノの音と混ざってヴァイオリンが聞きづらい」なんて、誰が言い出すでしょう?
混ざった音を愉しめばいいんです。
それに。
声の方も負けてない。

ヴァイオリンで人のしゃべり声を再現している様子をたまに見かけますが、まさに、そんな感じ。
歌ではないんですけれど、音ではあるわけですから、そのまま楽譜に起こせると思うんですよね。
それをそっくりヴァイオリンで演奏して、そのままピアノと協奏できそうな、そういう声の張りに、人の声は楽器だと言うのは本当だなと改めて思いました。
ただし声には言葉が乗って、意味を含んで響きますから、実際にはそっくりそのままスライドして「ヴァイオリンとピアノのための協奏曲」にはできないでしょうけれど。



そして遂に! 本命中の本命が!
茨木のり子の詩華集『茨木のり子詩集』からの「わたしが一番きれいだったとき」。
世の茨木のり子ファンは「汲む」押しの方が多いようですが、Yukiのイチオシは断然「わたしが一番きれいだったとき」。「When I Was Most Beautiful」も好き。

回想録が始まってもおかしくないタイトルなのに、ことさらに戦争その悲惨さを謳う訳でも、自己憐憫を叫ぶ訳でもなくて、勿論、消化しきれない悲しみや苦しみは透けて見えるんだけれども、それは事実として認めながら、そこと陸続きのどこかから、前向きに仁王立ちしているような凛々しさが好きです。

これが演目に入ったから、誘惑に負けて巣穴からノコノコ出てきちゃった訳ですし。
しかも3本目。
今のところハズレなしですから、楽しみで楽しみで胸が高鳴ります。

……これはあれだな、あった方がいいヤツじゃなくて、ないと駄目なパターンだ。

だって、
ある時は効果音、
ある時はBGM、
ある時は声と張り合い、
ある時は展開を暗示する。

兄上は八面六臂の大活躍です。

例えば、お母様の声で「ラジオからはジャズが溢れた」と響く。
その瞬間にジャズが溢れるように流れてくる。
ある意味ベタな演出ではあるんですけれど、ベタだってことは王道だってことで、やっぱりまっすぐに胸に響いてくるんです。

一度は死んでしまった茨木のり子だけれど、
今回、「声とピアノの協奏」というまな板に載せられたことで、
もう一花咲かせたような、別の命を授かったような錯覚を覚えるんです。
こうして読み継がれ聞き継がれていったら、彼女が二度死ぬ日は来ないなと思えるんです。

我ながら馬鹿みたいに感動して、奥歯を噛み締めながら、ぶるぶるぶるぶる震えていました。

茨木のり子展とか、常設の記念館があったら、「朗読の展示」も検討して欲しいと思いました。
少なくとも「朗読とピアノのための4つの小品」は、そうやって展示していいレベルだと信じます。
古典の日に古典作品の朗読を募集しているように、茨木のり子の日(っていつかな。6月12日か2月17日?)に公募したりして、何ならそれで町おこしでもしたらいいのに。
人もまた資源ですよ。



ラストは、茨木のり子の詩華集『倚りかからず』からの、表題作でもある「倚りかからず」。
毅然とした「もはや」を目にするたびに、茨木のり子の人生の何を知っている訳でもないのに「いやいやあなたは自分の足でいつでも仁王立ちしているじゃないですか」と言いたくなる作品です。

とうとうラストになってしまいました。
この調子で後一時間くらい突っ走ってくださっても全く問題ないのに。

お母様はやはり毅然と「もはや」を読んでくださって、実は茨木のり子が憑依しているんじゃないかとか、そういうファンタスティックな感想が脳裏を掠めます。
そうそう、ここでようやく椅子の出番が。

最後、お母様がちょんと椅子に腰掛けて、兄上の演奏を聴いているところにほっこりしました。
そのままリサイタルに突入してくださっても全く問題なかったのに。

…と思っているうちに本当に終わってしまって、じーんと淋しくなりました。
手が痒くなるくらい拍手したから、そのままアンコールが……ということは勿論なくて。
無常にも緞帳は下りてしまったのでした。



ここで前半が終了。

すごく濃い時間で、全く「あっという間」という気はしなかったです(体感時間としては30分ぐらいあった気がします)。

緞帳が下りて、携帯の電源を入れると、19:38。
開始から一時間八分が経過した計算です。
このままこの余韻に浸りながら、退席して母の里へと移動するのもありかなという気がしたり。
最後にカーテンコールとか出演者紹介とかあったらショック過ぎる! 最後まで見届けないと! と思いなおしたり。


ちなみに全部が終わっても、別にカーテンコールや出演者紹介はなかったです。

代わりといっては何ですが、ロビーに出演者の皆様がいらっしゃって、お知り合いらしき方々と歓談していらっしゃいました。
ちょうど目の前には生兄上がいらっしゃって、どなたかとお話していらっしゃって、そっとお声の響きを拝聴します。
気分は覗き見しているストーカー(全力で駄目な人)。

勇気を振り絞ってご挨拶…(しようとしたんだったかな、しかけたんだったかな、したんだったかな。興奮しすぎてちょっと記憶が曖昧です)。

とにかくそこへ右手からお母様が!
差し入れに驚いていらっしゃる風で、「おお、普段のおしゃべり声を聞いちゃった!」とか興奮していると(まるっきり不審者)、多分、不審者の気配をお察しになったのでしょう、私の方を向かれたので、勇気を出してご挨拶を。
そうしたら「息子! 息子!」と兄上をご紹介くださいました。
そのまま生兄上ともお話させていただけることに。

我ながら落ち着け、落ち着けと念じながら、でもそんな物はこれっぽっちもストッパーにはならず、大興奮の大音量で感想をとめどなくしゃべりまくってしまった気がします……。

いいんだ、どうせそんなキャラなんだ。
次回のつくばの時に、もうちょっと理知的なキャラを装えばいいんだ。
posted by Yuki at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする